01
病気の概要
肥大型心筋症(ひだいがたしんきんしょう、Hypertrophic Cardiomyopathy:HCM)は、心臓の壁(心筋)、とくに左心室の筋肉が異常に厚くなる病気です。筋肉が厚く硬くなると、心臓が十分に広がって血液をためこむことができなくなり(拡張障害)、全身へ血液を送り出す効率が落ちていきます。
猫にもっとも多い心臓病で、猫の心臓病の大半を占めます。多くはかなり進行するまで無症状で、見た目にはふつうに元気そうにしています。そのため、健康診断の聴診で心雑音や不整脈を指摘されて見つかったり、あるいは突然の呼吸困難や後ろ足の麻痺(動脈血栓塞栓症)で初めて気づかれたりします。
15%
一般的な猫におけるHCMの有病率の目安(ACVIM 2020)
85%超
猫の心臓病のうちHCMが占める割合
30回/分
健康な猫の安静時呼吸数の目安(この値未満を保つ)
この病気で最も大切なのは、無症状のうちに見つけて、今どの段階かを知っておくことです。症状が出てからでは、すでに心臓に大きな負担がかかっていることが多いからです。当院は、国際的なステージ分類(ACVIM 2020)にそって、その子にとって最適なタイミングで手を打つことを大切にしています。
02
何が起きているのか
厚く硬くなった心筋は、収縮する力よりも「広がってゆるむ力(拡張)」が先に落ちていきます。心臓が十分にゆるめないと、血液が左心房にたまって圧が上がり、次のような流れで問題が起こります。
STEP 1
心筋(左心室)が厚くなる
左心室の壁が厚く硬くなり、心臓が十分に広がってゆるめなくなる(拡張障害)。心室にためられる血液の量が減っていく。
STEP 2
左心房に血液がたまり、拡大する
行き場を失った血液が左心房にたまり、圧が上がって左心房が大きくなる。左心房の拡大は、心不全と血栓の両方のリスクが高まったサイン。
STEP 3
うっ血性心不全(肺水腫・胸水)
左心房の圧が高まると、肺に水がしみ出る肺水腫や、胸に水がたまる胸水を起こす。ここで初めて、速い呼吸・呼吸困難といった症状が出る。
STEP 4
動脈血栓塞栓症・突然死
拡大した左心房の中に血のかたまり(血栓)ができ、流れて後ろ足などの血管に詰まる(ATE)。また、不整脈による突然死を起こすこともある。
03
好発猫種・年齢
- どの猫種にも、雑種(ミックス)にも起こりうる病気です。中でも次の猫種は遺伝的な素因が知られています。
- メインクーンとラグドールでは、HCMの原因となる遺伝子変異(それぞれ MYBPC3 の A31P、R820W)が同定されており、遺伝子検査で調べることができます。
- そのほか、ペルシャ、ブリティッシュ・ショートヘア、ベンガル、スフィンクス、ノルウェージャン・フォレスト・キャット、ラガマフィン、アメリカン・ショートヘアなどでも多くみられます。
- 発症する年齢は幅広く、若齢から高齢までさまざまです。好発猫種では若くして発症することもあるため、年齢だけで安心はできません。
04
症状・サイン
長い無症状期があり、症状が出るときには一気に現れることが多いのが特徴です。次のようなサインに気づいたら、ご相談ください。
05
病期分類(ACVIMステージ)
肥大型心筋症は、国際的な合意(ACVIM 2020 猫心筋症コンセンサス)にもとづき、進行度をステージに分けて考えます。このステージによって、必要な検査も対応も変わります。とくに、無症状のステージBを「当面のリスクが低いB1」と「リスクが高まったB2」に見分けることが、猫のHCMでは重要です。
| ステージ | 状態 | 対応・管理の考え方 |
|---|---|---|
| A | HCMになりやすい猫種など、リスクはあるが心臓に異常はない | 治療は不要。定期的な聴診・健診で見守る |
| B1 | 無症状で、心臓の変化は軽度。当面の心不全・血栓のリスクは低い | お薬は使わず、定期的な心エコーで経過をみる |
| B2 | 無症状だが、左心房の拡大などでリスクが高まっている | 血栓予防(クロピドグレルなど)を検討。心不全の早期発見のため在宅の呼吸数モニタリングを強化 |
| C | 心不全(肺水腫・胸水)や動脈血栓塞栓症を起こした(過去に起こした場合も含む) | 利尿薬などで心不全を管理し、血栓予防を継続 |
| D | 標準的な治療に反応しにくい、難治性の心不全 | 治療を強化しつつ、QOLを最優先に緩和的な管理も |
06
診断・検査
「心臓が厚くなっているか」だけでなく、「左心房がどれだけ大きくなっているか(=どのステージか)」を見極めることが診断の目的です。また、HCMに似た状態を引き起こす別の病気(甲状腺機能亢進症や高血圧など)を除外することも大切です。
聴診・身体検査
心雑音・不整脈・奔馬調律(ギャロップ音)がないかを確認します。ただし、HCMの猫でも心雑音が聞こえないことがあり、聴診だけでは診断できません。
心臓超音波検査(心エコー)
診断の中心です。左心室の壁の厚さ、左心房の大きさ、心臓の動き、心臓内の血栓や「もやもやエコー(血液のうっ滞)」の有無を評価し、ステージを判断します。無麻酔・低侵襲で行えます。
胸部レントゲン・血圧測定
レントゲンでは肺水腫・胸水の有無を確認します。あわせて血圧を測り、HCMに似た心肥大を招く高血圧を見分けます。
血液検査・心臓バイオマーカー
甲状腺機能亢進症などの除外や全身状態の評価を行います。NT-proBNPなどの心臓バイオマーカーは、心臓病の有無を絞り込む補助的なスクリーニングに役立ちますが、心エコーの代わりにはなりません。
07
治療 ― 病期に応じて
HCMそのものを元どおりに「治す」お薬は、今のところありません。治療の目的は、心不全や血栓といった合併症を防ぎ、コントロールして、その子が穏やかに過ごせる時間をできるだけ長く保つことです。ステージに応じて対応します。
無症状期(B1・B2)の管理
B1では、お薬を使わず定期的な心エコーで経過をみます。B2でリスクが高まっていると判断された場合は、血栓予防を検討し、在宅での呼吸数モニタリングを強化します。
うっ血性心不全(ステージC)の治療
肺水腫には利尿薬で水を抜き、胸水がたまっている場合は針で抜いて呼吸を楽にします。急性期は酸素室での管理を行うこともあります。落ち着いたら、在宅での内服管理へ移行します。
血栓を防ぐ(抗血栓療法)
左心房の拡大などで血栓のリスクが高い子には、血小板の働きを抑えるクロピドグレルなどを用います。ATEの再発予防に有効性が示されている一方、体質による効きめの差もあり、その子に合わせて判断します。
不整脈・流出路の狭窄への対応
心臓の動きすぎ(左室流出路の狭窄)や不整脈がある場合、アテノロールなどのβ遮断薬を検討することがあります。ただし、これらのお薬で生存期間が延びるという明確なエビデンスはなく、目的を絞って使います。
08
動脈血栓塞栓症(ATE)について
猫のHCMで、飼い主さんに最も知っておいていただきたい合併症が動脈血栓塞栓症(どうみゃくけっせんそくせんしょう、Arterial Thromboembolism:ATE)です。拡大した左心房の中にできた血栓が血流に乗って流れ、多くは後ろ足へ向かう大動脈の分かれ道(鞍状部)に詰まります(「鞍状血栓(あんじょうけっせん)」と呼ばれます)。
ATEは痛みが強く、予後も楽観できない合併症です。だからこそ、起きてから対応するより、リスクの高い子で前もって血栓予防を行うこと、そしてそもそも無症状のうちにHCMを見つけて左心房の拡大を早く捉えることが何より大切になります。これはまさに、当院が大切にしている「なぜを問い続け、選択肢を狭めない」という姿勢につながる部分です。すでにATEを一度起こした子でも、再発予防のための管理を続けていきます。
09
ご家庭でのモニタリング ― 安静時呼吸数
この病気で、ご家庭が担える最も大切な役割が、安静時(睡眠時)呼吸数の記録です。肺水腫や胸水がたまり始めると、目に見える症状が出る前に呼吸数が増えてくるため、心不全の悪化を最も早く捉えられるサインになります。猫は不調を隠すのが得意なので、この客観的な数字がとても頼りになります。
記録に役立つアプリ
My Pet's Heart2Heart(ベーリンガーインゲルハイム/無料・iOS・Android)を使うと、呼吸のたびに画面をタップするだけで呼吸数を自動でカウント・記録し、推移をグラフで確認できます。記録したデータを獣医師に共有する機能や、多頭飼いへの対応もあります。表示は英語ですが操作はシンプルです。使い方でご不明な点は、受診時にお気軽にご相談ください。
日々の数値を記録しておくと、その子にとっての「いつもの呼吸数」が分かり、変化にいち早く気づけます。これは、診察室の外で治療を支えていただく、いちばん心強い方法です。
10
予後
肥大型心筋症の経過は、その子によって大きく異なります。無症状のまま、寿命をまっとうする子も少なくありません。一方で、心不全やATEを起こすと予後は慎重にみる必要があり、突然死のリスクもゼロではありません。だからこそ、今どのステージにいるかを知り、リスクに応じた備えをしておくことが、結果を大きく左右します。
心不全(ステージC)に至っても、お薬でコントロールしながら穏やかに過ごせる子は多くいます。大切なのは、悪化のサインを早く捉えて、後手に回らないことです。ご家庭での呼吸数モニタリングと、定期的な心エコーが、その両輪になります。
「元気そうだから大丈夫」と思っているうちに、静かに進んでいることがあるのが、この病気です。とくに好発猫種や中高齢の子は、無症状のうちに一度、心臓の状態を確かめることから始めましょう。その子とご家族が幸せに過ごせることを目標に、選択肢を一緒に考えます。
11
さらに詳しく知りたい方へ(参考リンク)
より深く知りたい方のために、当院が診療の拠りどころとしている信頼できる情報源をご紹介します。外部サイトへ移動し、専門的な内容や英語のページを含みます。気になる点は、遠慮なく担当獣医師におたずねください。
- 猫の心筋症(日本語・獣医師向け・オープンアクセス) — 動物循環器病学会の学術誌に掲載された総説(Kittleson・Côté著/上地訳)。HCMを中心に、病態・診断・治療を日本語で体系的に解説。
- 猫の心筋症 分類・診断・管理のACVIMコンセンサスガイドライン(2020年・獣医師向け・英語) — 本ページのステージ分類(A・B1・B2・C・D)と管理方針の基礎となる国際的な合意文書。
- 猫と犬の肥大型心筋症/MSD獣医マニュアル・獣医師向け(英語) — 病態・診断・治療の全体像を専門家向けに解説(UC Davis・Kittleson 執筆)。
- 肥大型心筋症/コーネル大学 猫健康センター(飼い主向け・英語) — 大学の専門機関による、飼い主向けの分かりやすい解説。

